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歴史を秘めた大木

クロガネモチ 3番・6番・13番・14番・16番ホールほか

クロガネモチ写真

春に花を咲かせ、秋には真っ赤な実をたわわに実らせるクロガネモチは、3番のホールに沢山ありますが、この14番ホールにも楠の大木の中にあって、負けない位の姿でそびえております。その他16番ホールティーグランド横にも巨木を配し、秋にはたわわに実った赤い実がとても美しいです。3番のクロガネモチの森は、今先生が心酔していた幕末・天保の時代、大阪の義人と呼ばれた大阪奉行所・与力大塩平八郎縁の「クロガネモチ」の木を自宅の庭に植えておりましたが、それを奥道後に移植したものです。

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忠臣蔵の森 5番ホール

忠臣蔵の森 5番ホール

江戸時代・元禄の世に一大事件として勃発した「赤穂浪士の討ち入り」で有名になった「忠臣蔵」ですが、その討ち入り後、副大将で内蔵助の息子・大石主税以下十士が預けられたのが、当時の松山藩・松平家江戸屋敷でした。松平家は元愛媛県知事の久松定武氏が継いでおり、坪内と親交が厚かったことから、赤穂浪士の切腹を見取った松平家の庭木を奥道後に移植したものです。

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忠臣蔵・大石内蔵助の妻「りく」ゆかりの木 5番ホール

「りく」ゆかりの木写真

旧松山藩(松平家)江戸屋敷から同家を継ぐ久松定武・元愛媛県知事から譲り受けた大木があります。この松平家・江戸屋敷は、忠臣蔵で有名な赤穂浪士のうち大石主税はじめ十士が討ち入り後あずけられ、その庭で切腹したことは周知の通りです。その忠臣蔵の総大将・大石の妻「りく」にいわれのある木を作家・平岩弓枝先生の代表作「花影の花」の文中にある「りく」ゆかりの木を息子・主税の最期を見取った松平家の庭木とともに移植したのがこの木です。

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久松家ゆかりの木 5番ホール

久松家ゆかりの木写真

白蓮ゆかりの木が立ち並ぶ楠の大木の5番ホールの中でも、特に目を引くのがこの久松家ゆかりの「楠」の大木です。旧松山藩の城主を継ぐ「お殿様知事・久松定武氏」と親交の深かった坪内が、同氏の屋敷から楠のホールに一層の格式を持たせる狙いから譲り受け移植したものです。

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白蓮夫人ゆかりの木 6番ホール

白蓮夫人ゆかりの木写真

九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門が25歳年下の華族令嬢・柳原白蓮と結婚し妻の為に贅沢を尽くした「赤銅御殿」と呼ばれた別荘を建設しました。後に前代未聞の離婚劇を演じ、白蓮事件として世間の注目をあつめましたが、その赤銅御殿の庭木48本を作家・今東光先生の仲介で譲り受け移植したのもです。白蓮と赤銅御殿を知ってるのはこの楠だけでしょう。左ドッグレッグの右サイドにずらりと植えられた楠はいずれも大木ばかり。特に奥道後の中でも異彩を放つホールとなっています。

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和尚の好きなサルスベリ 7番ホール

和尚の好きなサルスベリ写真

5,948本の「百日紅」は奥道後ゴルフクラブにとってかけがえのない「宝」です。今東光先生の「歴史を金で買え!」「金に糸目をつけるな!」の号令一喝、百人を超す作家の先生方が全国各地から集めたものです。
「金は坪内が払う」と言って先生方は金額等気にせず、買い集めた結果、奥道後では最も資金のかかったホールとなりました。中には、沖永良部島に流刑された「西郷隆盛」や日本海海戦の名将・東郷平八郎ゆかりの古木など、成長の遅いサルスベリだけに、これだけの古木は、まさに「金で買った」といえるでしょう。
夏の奥道後の代名詞ともなっております。

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作家が愛したツバキ 10番ホール

作家が愛したツバキ写真

10番「椿ホール」には8,523本のツバキを植えました。ツバキを愛した池波正太郎先生、水上先生、佐野洋先生、新田次郎先生、安達瞳子先生らが自ら古木を集め、見事なホールに作り上げました。
永野重雄日本商工会議所会頭は、昔、侍がツバキを忌み嫌ったことからか、ご自身もツバキを嫌い、椿ホールに反対しました。しかし、作家の方々の執念は強く、永野会頭の意見も通用しませんでした。
水上先生は、金閣寺を復元した奥道後について、その著書「雁の寺」で触れています。奥道後とも関わりが深い水上先生が、椿の庄で育った日野富子を描いていることから、今東光先生の指示で、椿の庄(京都府綴喜郡田辺町の一休寺周辺)からもツバキの古木を取り寄せました。
また、ツバキは松山市の花として市民に親しまれています。

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勲章とアメリカンデーゴ 11番ホール

アメリカンデーゴ写真

11番のアメリカンデーゴ497本は、日米親善とレーマン元駐留米軍司令長官との親交を記念するものです。
レーマン氏は日本在任中、勲一等を親授されましたが、盗難に遭い困り果てていました。当時の谷川和穂防衛庁長官らが新しく作り直す資金を集めるため、財界に協力を求め奔走しました。しかし、資金を出すには理由が立ちにくく費用もかさむため、協力者は現れませんでした。「理解してくれるのは唯一人」との河本敏夫元国務大臣の助言から、谷川氏は河本氏が名を上げた坪内に依頼し、協力を得ることが出来たのです。
坪内の力で新しく作られた勲章を渡され、レーマン氏も大変喜ばれました。レーマン氏はアメリカへ帰国するに際して、「日米協調の標」にと、アメリカンデーゴを贈り、坪内に感謝の意を表しました。以後、レーマン氏と坪内の親交は深まり、坪内が渡米した際、海軍長官であったレーマン氏が直々にペンタゴン(米国防総省)を案内しました。

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柴錬さんが勧めた新しい人助け 12番ホール

辛夷写真

12番コブシホールは当クラブ唯一の会員でした柴田錬三郎先生の希望で作りました。柴田先生は「眠狂四郎」に代表されるように剣豪小説を好んで書かれ、武士をもじってコブシを植えるように指示されました。541本のコブシは柴田先生の願い通り、見事に葉を生い茂らせています。
柴田先生はご自身の死期を悟られると、残された家族にもめ事が及ばぬよう愛人問題など身辺整理をされました。この時、柴田先生は坪内を仲に入れ証人にしました。「自分で愛人の型を付けるのが当たり前と錯覚する人がいるが、後々、問題にならぬよう、信用できる第三者を証人に立てるのが鉄則」と柴田先生は話されていたそうです。
日本の政界、財界では大物になればなるほど、その死後、愛人問題で家族が困ることが多々あります。柴田先生は「二号と手を切る専門家になれ」と坪内に勧めたのです。これが契機となって「坪内が手切れ金を出して別れ話をしてくれる」と評判になり、大物財界人が愛人との別れ話を坪内に依頼するようになりました。その数は十数人に及んだそうです。坪内は日本で例のない「手切れ金を出す専門家」として名を上げ、信頼を高めていきました。

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司馬遼太郎ゆかりの木 13番ホール

司馬遼太郎ゆかりの木写真

司馬先生の代表作「坂の上の雲」に登場するのは、松山市出身の秋山好古・眞之兄弟です。俳人・正岡子規と郷土を同じくする秋山兄弟は兄弟ともに「日露戦争」の時代を兄は陸軍、弟は海軍にと名声を轟かせました。特に、「日本海海戦」でのT字作戦を編み出した弟・眞之は文才にも長け、この海戦の東郷平八郎元帥の旗艦・三笠より発信した「天気晴朗なれど波高し・・・」の名文句を草案した人物としても知られているところです。その秋山兄弟を中心に明治の群像を「坂の上の雲」として発表した司馬先生はその執筆にあたり、度々松山に訪れました。その記念として植樹されたのがこの木です。

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乳房銀杏「北の政所・ねねの木」 14番ホール

「北の政所・ねねの木」写真

豊臣秀吉の妻「ねね」ゆかりの木です。愛媛県出身の十河信二元国鉄総裁と菅野和太郎元通産大臣から贈られたものです。
十河氏と菅野氏は明治百年事業の一環として松山市出身の元大蔵大臣・勝田主計氏の銅像を建立することを計画し、当初は寄付を募って建立の予定でしたが、坪内がその全額を負担することを申し出、場所も奥道後山頂を提供しました。
そのことに感謝した両氏はもともと女性問題を抱える政治家を特に嫌っており、豊臣秀吉の正妻「ねね」と側室「淀君」との確執をたとえ、「浮気の戒め」として、この木を選び贈ったそうです。この銀杏の木は幹から樹液が流れ出て固まり、女性の乳房のように見えることからその名がついた珍しい木です。

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銀杏の瘤 14番ホール

銀杏の瘤写真

この14番ホールティーグランドに向かう茶店の前に悠然と聳えるのがまさに珍木「銀杏の瘤」です。樹齢は一切判明しませんが、樹脂の塊からこのように若木が何本も芽を出し、このような珍しい現象をおこしました。

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正宗ゆかりの欅(ケヤキ) 15番ホール

正宗ゆかりの欅写真

作家専用のゴルフ場として恥ずかしくないコースにするため、今東光先生は歴史ある大木を自らも探し求めて奔走しておりましたが、先生と学生時代からの親友であったノーベル賞作家・川端康成先生は今先生の苦労を見かね、協力を申し出て下さり、「若い作家のため、伊達政宗ゆかりの木を贈る」と記され、ケヤキの大木9本を贈ってくださいました。
15番ホールのティーグランドには最も難易度の高いこのホールにふさわしい位威風堂々と立ち並んでいます。

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乃木大将ゆかりの木 18番ホール

乃木大将ゆかりの木写真

日露戦争で有名な乃木大将にゆかりのある木です。後に乃木大将は第十代学習院院長をつとめましたが、松山市出身で第十八代目院長を務めた阿部能成氏から坪内に贈られたもので、乃木大将が師団長時代に住んでいた官舎跡を阿部氏の教え子の父兄が所有していたことから、その木を譲り受け坪内に贈ったものです。

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北の庄 お市の方ゆかりの木 18番ホール

お市の方ゆかりの木写真

作家・柴田錬三郎先生がやっとの思いで入手し、奥道後へ移植されたものです。戦国時代に「本能寺の乱」で悲運の死後を遂げた織田信長の妹「北の庄 お市の方」ゆかりの古木です。

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吉田茂感謝の木 クラブハウス玄関前

吉田茂感謝の木写真

中国大使を務めていた頃の吉田茂元総理大臣と親交のあった榊谷仙次郎氏を坪内が厚情をもって対応し、この榊谷氏の豪邸を買い取り、同氏の窮地を救いました。数年後当時の日本商工会議所会頭・永野重雄氏が榊谷氏と同郷であったことから、この豪邸を譲ったそうです。吉田元首相は永野氏と相談の上、榊谷氏への厚情に感謝の気持ちを込め、豪邸の玄関にあった松を坪内に贈ったのです。その使者には、吉田元首相の側近として、諸外国との交渉にあたり、日本復興の原動力となり、後の国会にも強い影響力のあった白洲次郎氏が訪れて移植しました。

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